冷静と情熱とアイデア

日々考えたことなど

年上と年下どっちが好き?という議論の不毛さ

合コンとか街コンとか、男女の出会い的な場面でよく出てくるタイトルの質問、これ、全く不毛だよなと毎回思っているわけであります。

 

なんとなく、女は年上の男がよいという傾向があり(最近はそうでもないのだろうか?)、男は年下の女がよいという傾向がある。街コンでも「年上男と年下女」みたいなテーマはよく見るが逆はない。

でも、果たしてこれにどこまでの合理性があるんだろう。

 

いや、男の年下がよいというのは、これはまあ理解できる。やっぱり、セックスするんだったら若い方がよい、というのは本能だろう。僕は年上も好きだけど

だが、女の年上男好きというのは、精神的に落ち着いているとかスマートに引っ張ってくれそうだとか、経済力がありそう等などの理由で言われるが、これは別に年齢と関係するものではない。

ちょっと前の良い時代だったら、会社に入れば給料はどんどん上がるし、その金で遊びに連れて行ってもらえるし、その結果、遊び方・女の子の扱い方がスマートになっていったみたいな事例は多かったのかもしれないけど、残念ながら今はそういう時代ではなくなってしまった。

 

年が上がっても金はそんなに増えないし、経験も積んでないゆえにスマートにもなっていない、みたいなのが大半だろう。

残念なことに、落ち着きやスマートさは身になる経験からくるものであり、それが無ければ年齢がいくら上がったところで、成熟などしない。

というか、そもそもいくら経験を積んだところで、表面上のスマートさは上がるかもしれないけれど、所詮僕らは「食べたい、寝たい、セックスしたい、認められたい」の俗欲にまみれた生物であり、死ぬまでどうせ変わらない。

 

男仲間同士で話しているとそんなふうに思う。小中学校のころから、別に話題は変わらない。

女の話と(広義の)ゲームの話。このゲームのところが、仕事になっただけだ(仕事なんて所詮は金と人間を動かすゲームである)。

もっと歳とった男連中と話しても、手を変え品を変え、結局おんなじような話しかしていない。人間なんてそんなもんだし、それでいいのだ。

 

「成熟して精神的に落ち着く」なんてのが、そもそもフィクションだ。俗欲たちと、どう折り合いをつけるかの技術の巧拙があるに過ぎない。本質的にはみんな未熟な少年たちで、それは死ぬまできっと変わらない。だから、せめて、それを含めて気に入った男を女は本能的に好きなるんだと思うけど、それって、今の時代特に年が上でも下でも関係ないよな〜と。

 

年齢が上がっても特に変わる気配のない自分をかえりみて、そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プログラミングの義務教育化によってプログラマーの給料はさがるのか

ふと、プログラミングを勉強したくなった。

いろいろサイトを徘徊したあげく、自分でも何かウェブ上で動くものを作ってみたくなったのと、学生時代にJavaを少しかじったことがあって、そのときに結構面白かったなと感じたのを覚えていたからだ。どう面白かったのかは覚えていない。

 

で、こういう新しいことを始めようとするときにいつも僕の悪い癖で、コスパを考えてしまう。習得したところで、金になるのか。自分が覚えたときにきちんと需要があるのか。

 

プログラミングを学ぶ、なんてことは真新しいどころか、むしろ当たり前になりつつある発想で、ついに小学校の義務教育になろうかというところである。

そうなったときに、大量のプログラマーが生まれるから、プログラマーの供給過多になるのではなり、自分が覚えるメリットは無いのではないか、なんてことを思うのである。

 

ただ、よくよく考えると、プログラミング学習が義務化されたところで、そこからプログラマーになる人が果たしてどれくらい現れるかというと、そんなに出てこないのではないかなと思った。

義務教育によって、そのスキルをしっかりと持った人材がきちんと生まれるならば、もっと英語が流暢に話せる人はたくさんいてもいいはずだし、ほとんどの人が数学が出来るようになっててもおかしくないはずだ。

 

でも、そうなっていないということは、何事も教えようとしたところで、できる人、好きな人はやるし、そうでなければやらない、ということだろう。しかもプログラミングなんてのは、得意不得意、好き嫌いが激しそうな分野だし、義務教育がきっかけでプログラマーの供給過多になるような事態はおそらく出てこないかなと思った。

 

今の時代、英語ができる人なんて当たり前のようにいる、なんて言っているが、そりゃ昔に比べれば相対的に増えていると思うけど、自分の半径10メートルの人を見回したら相変わらずほとんどいないし、求職上も英語が使えればかなり引く手数多である。

 

 

プログラミングに関しても、そんな経過をたどるんじゃないかなと思っている。

 

「締切り効果」というものに疑問を抱いている

何かやり遂げたいことがあるときに、タイムリミットを決める。

イムリミットがあることによって、そこに向かって努力をするから、時間通りに終わるし、その時間までにきちんと力を発揮できる。

よく、ビジネス書なんか読むとこの締切り効果を有効に使え的な文句が出て来る。確かに、試験があるときはそこに向かって直前に詰め込むことによって成果を上げるし、期限の決まっていない、いつかやりたい的なものは結局手すらつけずに終わるような気もする。ゆえに、締切り効果というやつは正しいのだと、思ってしまっているところもあった。

 

だけど、僕はこの締切りによってモチベーションが上がった結果成果を出すということがあまりないタイプである。

僕は、頭のメモリがおそらくそんなに大きくない方で、ある課題に対して期限を決められると、どうもその期限が気になって頭の中がごちゃごちゃしてしまう。

課題の総量を残りの時間で割った結果、だいたい時間あたりこのぐらい出来なければいけないな、なんて思うと、そのノルマ的なものに頭の中を奪われてしまう。

そして僕は、頭を素早く働かせるのは苦手だから、ああ、これ間に合わないなと思う。そして、その考えが頭の中に渦巻くと、どうにも進まなくなる。

 

そこで、僕はどうるかというと、もう期限なんて無視し始める。所詮は自分の頭の速度でしか物事は進められないし理解できない。時間通りにやることを諦めるのである。

その結果、課題に集中できる。集中した結果、コツがつかめてくる。だから途中で速度が上がっていく。結果的に、締切に間にあう・・・・ことがある。

あくまで、ことがある。全部ではない。ダメだったものはダメである。

 

結局僕は、締切りを意識しない方がよい場合が多い気がする。締切りの存在が「今、こここ」への集中を妨げる。

 

与えられたことを、正確かく迅速に処理できる頭を持っている人間にとって、おそらく締切りというのは、適度なペースメーカーとなりうるのだろう。

だけど、そうならない人もいる。僕なんかは、これまでの人生を振り返ると締切りから自分を開放させた後、ようやく力が出てくるタイプであった。

(もしかしたら、この締切りから自分を開放するというプロセスに何らかの意味があるのかもしれないが。そうすると、やはりその意味において、締切り効果はあるということにもなろうか)

 

だけど、世の仕事にはこの納期がきっちり定まっているのが一般的で、これを守れるかどうかで、評価が大分変わってくる。このような世の中は、僕みたいな人間にとって非常に苦しい。なんとかならんもんかなといつも考えている。

 

できれば、この欠点を直す努力をするのではなく、この欠点を前提に前向きなことを提案する、という方向で。

 

日本の生きづらさを逆手にとって

仕事の話、結婚の話など、ライフスタイルに関する文章をいろいろ読んでいる。

その時に行き着くのが、だいたい、日本の生き辛さについての話だ。

 

他人の目を極度に気にする村社会。それが原因で、手が抜けない、失敗すると自分を駄目だと思ってしまう、結果、精神をやられる。勿論、こんな単純化はできないけれど、だいたいこんなことが書いてあって、他人の目を気にせず自分の人生を歩くメンタルを持っている他国の人たちを見習う的なことが書いてある。

 

このようなことについて、僕は、まあその通りだなと思う。これまで何とかこの村社会を生き延びてきたが、それは我慢できるだけであって、きついはきつい。さっさと放り出したいのはやまやまである。

 

ただ、おそらくこの他人を気にする目から来る生真面目さは、日本の治安の良さや、インフラの整備、丁寧なものづくりなど、日本の武器になっているところにつながっている。日本人がスペイン人みたいなメンタリティだったら(スペインのみなさんごめんなさい。僕は好きです)こんな整備された国にはなってないだろう。

 

まあだから、日本生き辛いなあと思う一方で、そこから生まれるメリットも知らず知らずのうちに享受している。おそらく、何か一つ正しい解があるのではなく、一つの物事は常に良い点悪い点両面あり、どの面をどれくらい出していくかのバランスを取るのが難しいのかなと思う。

 

ところで、この生きづらい日本であるが、今まで書いてきたように、メリットもたくさんあるわけである。

デメリットは、厳しい他人からの視線だが、こんなのを気にしないメンタリティを身につければ個々人のレベルでは良いとこ取りできるのではないか。

やりたいことをしつつ、最低限死なない物理的な条件は、非常に整っているのだから。

 

 

そして、おそらくそういうメンタリティを持てるというのは、この日本においてはなかなか珍しいことであり、身に付けられれば非常に大きなアドバンテージを得られる気がしている。

精神面は、個人レベルで変えていけなくもないだろう。

もっとも、容易だとは思わないが。そんな簡単なら、こんなに生き辛い生き辛い言ってないはずである。

 

「気の持ちよう」と言われているものについて、もっともっと深める必要がある。

技術的に。

 

生き辛い日本。これは、チャンスである。

 

やる気がない、というか書く気が起きない。働く気なんてもってのほか

いや、書く気はあるんだ。現に今ここでキーボードを叩いているのだから。

だけど、書きたいものが出てこない。

昼間のスターバックスでドヤ顔マックブックしながらブログ書こうかなと出てきたものの、どうも今日は乗らない。

 

こんな内容について書きたいな、ということをたまに思いつくと、メモしておくことがある。そのメモを見れば、ああこういうこと書きたかったなあと内容を思い出すことは出来る。だけど、今はそれを書く気が起きない。

 

僕はカラオケが大好きで、ヒトカラこそが最大の喜びくらいな人間なんだけれど、これも歌いたいという衝動が出てこないと行く気にならない。

だから、友達とカラオケの約束をして行くときには、その歌いたい衝動が全く出てこない日にならないかどうか、結構心配なのである。ヒトカラはその心配がないから良い。

 

自分が好きな対象に対してさえ、そんな調子だ。

これが、ただでさえ嫌々行っている仕事となると、これはもう本当に嫌である。

世の中には仕事が楽しくて、行くのがちっとも嫌ではないなんて言っている人もいるが、僕なんかは休みたいと思わない日がないぐらいである。

これは、自分の心身に対して申し訳ないなとこの頃思う。

 

世の中は、ある一定の時間や空間を区切った上で、そこに人間の行動を当てはめるようにしている。

だけど、それは心身の状態がそれぞれ全然違った個体である人間が生きる原理としては、ひどく不自然だよなーと思う。

 

何かやる気になったらそれをやり、やりたくなくなったら止める。それをトータルで積み重ねたほうが長い目で見たら生産性という意味でも高いんじゃないかなと。

ま、そうなったら結局何にもやる気が起きなくてただただグータラするだけになるかもしれないけれど。それならそれで別にいいけど。鬱で自殺者が出てしまうようりは、はるかに良い。

続けられるのは、魂の底からやりたがっていること

何か始めるときに、三日坊主ならまだいい方で、大抵は0日坊主だ。

明日から、これやろう、と準備をする。準備をするところまでのモチベーションはいいけれど、その後が続かない。

社会のことをよく知らなくてはと思って、ニュースを読む習慣をつけようと思ったことは何回もある。その度ごとに、紙の新聞はハードルが高いから、まずはアプリからだと思って、話題のニュースアプリをダウンロードする。明日から読むぞ、と意気込む。結果、次の日から読めたためしはない。だいたいダウンロードしておいて、明日から読むとか考える時点で、見込みがない。

勉強になりそうだから、いつか何かの役に立ちそうだからと思って買った本も、読めたためしがない。買って家で1回も開かれずにブックオフ送りになった岩波新書ちくま新書は数知れず。

 

要は、モチベーションが抽象的なうちは、何をどうあがいても、心も身体もついていかない。無理なものは無理なのだ。

 

だけど、その抽象的なモチベーションが、具体的になるときがたまにある。

このブログ、登録したのは去年のたしか9月頃だった。ブログ書くの、なんとなく楽しそうだし、何かの役に立ちそうだから。

それで、登録して、約1年弱、ほったらかかしだった。

そして今、心のそこから書きたいときが来た。表現しないと、どうにもならんような衝動がきた。ここからが、はじまり。

 

何かを始める、続けるというのはこんな時で、その時がきっと一番飲み込みも早くなる。これが物事のはじめどきである。

無理して何かを始めて、無理して続けてしまって、その対象が嫌いになってしまうよりは、とりあえず寝かしておいて、やりたくなったらやる、というスタンスでいろんな事を結果的に積み上げていけば、それで御の字ではないか。

 

逆に、やりたくなくなったら、さっさと離れてしまえばいいだろう。

このブログも、いつやりたくなくなるかは分からない笑

 

5000兆円は人を楽にするか

注意して頂きたいのは、「幸せにするか」ではなく「楽にするか」である。

結論から言うと、楽になるに決まってるだろと。んな当たり前のことわざわざ疑問に思うのはアホかと。そう思うだろうけれど、まあちょっと聞いて頂きたい。

 

5000兆円あったらそりゃ楽だし、楽しいだろう。世の中金が全てではないにせよ、大抵のことは金で直接解決できるし、金で直接解決することが難しい課題もうまく使えば間接的に解決できるだろう。そりゃそうだ。

 

では、ちょっと条件を変えてみて、神様からこんな条件付きで5000兆円もらえたらどうだろうか。

「5000兆円はやろう。しかし、それに手を付けてはならない。極力現状の生活を続ける努力をしなければならない。だけど、もし君が本当に困ってどうにもならなくなったときには、使ってもよろしい。」

神様からの条件だから全てはお見通しだし、破ったら5000兆円は没収である。

さて、この5000兆円は人を楽にするか。

 

まあ、楽にするだろう。少なくとも僕は非常に楽になる。どうにもならなくなった場合にも5000兆円あればどうにでもなりそうである。

そして、楽になった結果、現状の生活を維持するためのストレスは大幅に減るだろう。いざとなっても大丈夫なのであるから、いざとなることが怖くない。結果、滅多なことではいざってことにはならない。

 

何が言いたいのかというと、上記の条件で神様から5000兆円もらった上で、現状の生活を送りづつけることと、5000兆円がない状態で現状の生活を送り続けることは、結果の上では変わらないのではないか。その違いはひとえに5000兆円という数字の余裕が自分の頭にあるかどうかの違いだけである。

 

つまり、実は、別に5000兆円を実際に持ってなくても、条件付き5000兆円が口座あるということを信じていれば、人生かなり楽になるんじゃないか。

自分の脳を騙して5000兆円が存在しているということを信じ込ませれば、いろいろと楽に生きれそうだな、なんて思ったのである。

 

よく自己啓発本なんかにある夢がかなったことにして日記をつけるやら、イメージトレーニングをするやらという手法は、この話に似ているのではないかと思う。

まあ、これらの話は、その行為によって脳が夢が叶う方向に行くという話なので楽になるとは若干違うけれど、脳を騙す(というと語弊もありそうだが)ことによる現実の歪曲がプラスの効果を生み出すという点では同じである。

 

というか、そもそも「現実」というのは、所詮は自分の脳の認識の反映ではないか。だとしたら、そもそも歪曲ですらなく、それが真実なのかもしれない。てか、「真実」ってなんだ?

・・・まあ、ちょっとややこしくなったからいいや笑

 

結論としては、5000兆円ほしい!